寒い。そして、暗い。
ここは、どこだろう。誰も、いない。
雑音さえ、耳に入ってこない。
しゃがみこみ、一人、ただ空ろに時間を過ごした。
――シン。
不意に漏らした名前。
その、温もりを求めるように、自分の身体を抱きしめた。
けれど、そこには、なにも無くて。
わたしの、心音すら、無くて――ただ、わたしという存在を、隔絶した世界が、広がっていた。
一人? ステラ、一人……シン? どこ?
声さえ、音として流れず、わたしがただ“そこ”に在るだけで。
縋る当てはなく、この、寒さに凍えた。
――ステラ。
わかることは、もう、二度と彼の声が聞けない。もう、名前を呼ばれることはない。
会えない――その悲しさがわたしを襲う。
泣いた彼の顔だけが、わたしの心に残り。ひどく、悲しい瞳。手を伸ばすことは、できない。
泣かないで。そう告げることは、もう――。
わたしは、一人、“そこ”で埋もれるように、在るだけとなった。
――ステラ。
名前を呼ばれた。
――ステラ。
また、呼ばれた。
「ステラ…」
温もりを、感じた。
抱きすくめられた感覚に、懐かしい体温が交ざり、涙が促され。
「あたたかい…」
音のない世界に、心音が鳴り響いた気がした。
力強く、抱きしめられ、それに応えるように、わたしも強く抱きしめた。
「アウル…」
彼の存在(体温)が、わたしの世界を広げる。
「一人、じゃない」
「おまえ、危なっかしぃーの」
アウルの“声”が、わたしの心を震わした。言葉は音として紡がれることなく、互いの存在が静かに呼応していた。
「アウル…、ずっと、どこに、いたの?」
「海」
アウルからはそれ以上の言葉はなく、わたしの横で静かに笑っていた。
どうして、彼が“ここ”にいるのだろう。
ゆるやかに疑問に思いながらも、彼から離れないよう、また抱きしめた。ふと、思いだしたようにわたしは歌を口ずさむ。
「うーみーはー、ひろぉいーな、おぉーきぃ〜なー」
「ぷ! なんだよ、イキナリっ」
「つぅきーがぁー、のぉぼるーしー、ひがしーずーむー」
「確かに、そうだったね」
広かった――途方もなく。そう言いながら、アウルは笑っていた。そして、抱え込むように、わたしを覆った。
「おまえがいて……良かった」
小さく、アウルは呟いた。
見上げれば、彼の目がひどく優しくて、わたしもその笑顔に、応えた。こんなに優しく笑う彼を、わたしは初めて見た。
白く輝く光が、無数に薄暗い辺りに落ちていく。
それを静かに手の中へ納めた。手を開けば、光は消えていた。
「雪だよ」
落ちてくる光が、それだと、アウルは応えた。彼の視線を追うように、闇が広がる頭上を見上げれば、黒い視界から次々と、白い小さな光が降りてくる。
「シン……泣いている。シン……遠い」
ぎゅっとアウルの服の袖口を掴んだ。最後に見た、“彼”の顔を思い出す。
――シン。
ステラのせいで、泣いた? ステラのせいで、怖い? 胸を鷲掴みにされた感覚に陥る。
「……おまえのせいじゃねーのっての。ばーかっ」
変わらない憎まれ口に、思わず笑いが込み上げる。わたしは、くすくすと声を洩らした。
「なに笑ってんのさ?」
怪訝そうに顔を向けるアウルに、弾くように笑顔を送った。
「アウル――ありがとう」
そして、ゆっくりと視界を閉じ、再度、“彼”のことを思う。
「ステラには、アウルが、いる。でも……」
「このばーか! お人好し。いちいち生きてる人間のこと、気にしてんじゃないよっ」
「生きてる…?」
「ほら、来なって!」
わたしの言葉を遮るように、アウルが洩らした言葉がわたしを震わす。俄かに口が反応した。
わたしの手を、繋ぐように彼は握り、強引に引いて行く。
「アウル?」
「ほら……」
手を引かれ、導かれるように着いていった先には、“わたし”がいた。“そこ”から世界が、鮮明さを取り戻す。
「眠ってるようだね、まるで」
時が止まっているように、“わたし”が眠っていた。薄っすらと認識していたわたし自身の在りかを、ようやく自覚した瞬間でもあった。
「ステラ、死んだ」
ぽつりと漏らした自分の言葉に、不思議と恐怖はなかった。ただそれと共にわかったことは、隣で、わたしの横たわる身体を見詰めているアウルが、どうして“ここ”にいるのか――。その事実を知ったことが、自分に降りかかったはずの死よりも、悲しく思えて。
また、彼を抱きしめていた。
「天国って……どんなところだろう」
そう考えながら、ずっと、歩いていた。静かにアウルが話した。
「そしたら、おまえが――いたんだ」
「うん――」
「……おまえがいる場所だったら、地獄でも悪くないかもね」
そう思えるよ――アウルが笑った。わたしも、笑った。
わたしが生きてきた道は、灰色の中、血の赤さだけが、色濃く映っていた。植えつけられた死の恐怖により、わたしは、たくさんのヒトを殺した。
皮肉にも、わたしは、恐怖した死によって、肉体を束縛するシガラミから解放され、ようやく――『ヒトを殺す』ということが、どれだけ悲しいことなのか、身をもって知った。
シンの泣き顔が、何度も目の前を過ぎる。死んだことで、離れなければいけない悲しみ。そして、アウルの顔を見つめ、涙が溢れた。
――死なれたことの、悲しみ。
数々の悲しみが、わたしの耳元を木霊する。遅い後悔が、ただ、積もった。
「ステラ、いっぱい…いっぱい、殺した」
「ああ…ボクもさ」
互いの後悔を、静かに懺悔する。
「シンも……」
後悔と共に、“彼”のことを思う。戦争が続けば、また“彼”も、生きてる限り、ヒトを殺し続ける――。死んでしまった身の無力さが、辛くのしかかり、わたしを蝕みだす。止めることができない。懺悔と共に突きつけられた事実が苦しくて、わたしは泣くことしかできなかった。
「他人(ヒト)のことで…泣くなよ、ばか」
優しく罵るアウルの声が、わたしにとっての唯一の救いで。
彼に回した腕に、力を込めた。
「アイツ、生きてるんだろ? 生きてる限り……一人じゃない」
零したアウルの言葉が、尊く。わたしを揺るがした。
「うん」
生きてる限り――きっと、誰かへと繋がる。
たとえ、背負った後悔が重くても、二人なら――。
コポリ――…。
小さな水泡が、水面へと上がっていく。
その先に、微かな輝きが見えた。
隣にはアウルの姿はなく、わたしは一人、そこを見上げていた。
やがて、輝きは暗闇の世界を光で囲み、わたしもそれに、包まれた。
――ステラ。
名前を呼ばれた。
差し伸べられた手に、いざなわれるように、わたしは光の中へ消える。
眩い輝きの中、小さな鼓動が木霊した。